川端康成の雪国、冒頭は日本国民が全員知っている小説ではないでしょうか?
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。 夜の底が白くなった。」
この一文を読んだだけで情景が浮かんできませんか? 頭の中で今までの人生で自分が蓄積してきた雪国の映像が脳内のスクリーンに映し出される感じがします。
最初僕はこの作品は一つの映画作品のようだと思っていました。しかし読みすすめると、もっと抽象度が高いものだと思うようになったんです。
美術館で西洋絵画を見ているような感覚です。西洋絵画の中でも「連作」と呼ばれるジャンルがあります。ひとつのテーマについて複数の作品で表現することによって、全体でひとつの作品とするジャンルのことです。これが当てはまると思いました。
話のあらすじは東京から妻子持ちの「島村」が雪国を訪れるところから始まります。そこで出会う二人の女性、「駒子」と「葉子」との関係性がこの本の面白いところです。
とはいっても本の中では島村と駒子の会話が大部分を占め、その会話の前後の心情描写や風景描写が美しい作品となっています。
読んでみると頭の中で映像として再生されそうな小説ですが、僕はこのなぜか静止画で想像してしまいます。なんでなんだろうか考えてみました。考えついたのは、雪が降って積もる地域の時の止まった感覚のせいなのかな?と思いました。
皆さんスキーやスノボーを滑りに雪山に行ったことはありませんか? その場所に行った瞬間、なんだが時の流れがゆっくりになった感じがしませんでしたか? その感覚です。
これはかなり主観的な感覚なので理解し難いかもしれませんが、空間が白一色で占められると、そういう感覚に陥りやすくなるのかなと思います。
だからこの作品は一つ一つの場面が抽象的な西洋画に頭の中で変換されてしまうんだと思います。会話の前後にどこか白さや寒さを描写する表現があるからです。
なかなか一度読んだだけでは深くこの本を楽しむことは出来ていないと思います。絵画のように全体の構図を見つつ細部を楽しむように、雪国という小説は同じような楽しみ方を求められているのかもしれません。
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